学校をつくる。
「学校設立から9年。YouMeschoolコタン校の3階部分の増築が終わりました。10学年まで生徒が通うことができ、この村で教育を受ける機会が増えます」
昨日昼過ぎに流れてきたツイート。2018年の年末に一緒にネパールを旅したメンバーがそれぞれの思いをのせてリツイートをする。いっ時わたしのタイムラインはネパールにうめつくされた。
悪くない、時を戻そう。戻す時は2018年ではなく、初めてネパールを訪れた年。
何年だったんだっけと思いながらiphoneを撮影地で検索すると、2018年と2015年の画像のまとめが出てきた。(2018年「旅行ネパール」のトップにこれを持ってくるiphoneのチョイス、天才)
ネパールで小学校を作っている友人のシャラド・ライ。
大学から日本に留学をし、大分にあるAPU=立命館アジア太平洋大学(なんとここでも大分に縁があったよ、ムトゥー)で学び、東京大学の大学院に進学。ソフトバンクに就職をして、仕事を続けながら故郷ネパールのコタンに学校を作った。ほぼ日時代、APUの職員の方が「すごい卒業生がいるんです」と連れてきてくださったのがシャラドだった。
TBSの「ホムカミ」という番組でシャラドがコタンに作った最初の校舎が取り上げられていて。僕は今こんなことを故郷でやっていますと、ホムカミの映像を見ながら、学校づくりを始めるまでの道のりを聞いた。
映像が終わり、シャラドの話を聴き終わったとき、糸井さんと私はPCの画面を見ながら泣いていた。言うは易く、行うは難しの「故郷に学校をつくる」ということを、自ら借金をして故郷の家族の力を借りながら成し遂げてしまった若者の行動に、ただただ心を持って行かれるしかなかったのだ。
年齢関係なくシャラドのことを尊敬したし、「こんなことをやってのけてしまう若者がいるのだ」ということに感動していた。そしてすぐに「何か小さくでも手伝えることはないかな」ということも、同時に頭を駆け巡っていた。
その時シャラドが話していた自分に教育を与えてくれ、日本に留学をさせてくれた「国に恩返しがしたいんです」という一言が、出会いの時の彼の言葉として今もずっと耳に残っている。
ほぼ日でシャラドとイベントをしたり、取材をしたりしながら、どうしても彼の作った学校「YouMe school」を見てみたくなって 、初めてコタンを訪れたのが2015年の8月22日だった。
2008年の春に、約240年続いた王政が倒れ、連邦民主共和制になったネパール。
初めてネパールを訪れた2015年は、まだ憲法を立ち上げている真っ最中。「バンダ」と呼ばれる政治への反対運動(ゼネラルストライキ)が各地で起きている時で、日本を出発する前日の夜中にもシャラドと電話でやりとりをしていたことをくっきりと覚えている。蒸し暑い日で、外の風を家の中に入れながら「バンダ」の説明を丁寧にしてもらった。バンダが行われる日は、車で街中を走ってはいけないこと。無闇に道を走っている車を見かけると火炎瓶を投げつけられる可能性もあるので、カトマンズからコタンに向けての出発を1日遅らせるかもしれないこと。
その旅は、シャラドが一緒にネパールに行くことが叶わない日程だったので、ネパールでシャラドの妹サテがわたしたちをアテンドしてくれる予定になっていた。カトマンズで1泊増えるのも構わないし、サテに無理のないようにお願いをしてと話をして電話を切った。
旅は、予期せぬことが起きるのが当たり前。予定は未定。その場でいかに柔軟に決断をしてくかを楽しむゲームでもある。その力をふんだんに発揮できるのがネパールという旅の地だ。
カトマンズのトリブバン空港に到着すると、シャラドの妹サテと日本からネパールに支援活動に行っている小川まいちゃんというAPUのシャラドの先輩にあたるスーパーウーマンが私たちを出迎えてくれた。到着した時間は夜だったのだけれど、暗がりでオレンジの花のレイを持ちながら、笑顔で迎えてくれたサテとまいちゃんの笑顔が今も蘇ってくる。
2015年当時、カトマンズからコタンへの移動時間は1日半。(2018年に再訪した時には8時間の車の移動でコタンに到着できるようになっていた)バンダの影響は思っているより酷くはなく、シャラドが通ったカトマンズの学校を見学させてもらって、予定から数時間後にはTATAのジープに揺られてコタンに出発した。
道中、まだ車の通れる橋がかかっていない場所があって、荷物を担いで細い吊り橋を渡り、川向こうで1泊。車を乗り換えてコタンに向かうという道のり。
川沿いのレストハウスで宿のお母さんが作ってくれたダルバートの美味しさにびっくりしたのが、ネパールでの最初のおいしい記憶。石臼の上でカルダモンをゴリゴリ潰し、薪の火力は最大でチキンを炒める。(and recipeのHPに旅の記録と料理の動画もあるので、よろしかったらご覧ください)BGMは雨季で雨量の増えた川のゴウゴウ流れる音。パチパチと燃える薪の音とのコラボが心地いい。みんなの口数は少なかったのは、それぞれが初めてかぐ匂いと初めて聞く音を、本能的に逃したくなかったからかもしれない。
照明のない、真っ暗な外のテーブルでネパールビールのエベレストをあけ、宿のお母さんが作ってくれたダルバート(ダル=豆のスープとカレー、ライスとアツァールというお漬物が1プレートになったもの)を食べる。こういう時の生温いビールは、そんなに悪くない。捌きたてのチキンの入ったダルバートは、抜群においしかった。
目的地のコタンまでの道のりは長かった。2015年は、特に長かった。
でもこの道のりの長さのおかげで、知ることができたことがたくさんある。
硬いシートのTATAに揺られ、時折ボンボンとお尻をホッピングさせながら、ぎゅうぎゅうの後部座席でまいちゃんとサテと話した会話。シャラドの子どもの頃の話から、学校を作るまで。シャラド同様に優秀で、銀行に勤めていたサテが、安定した職を手放してまでお兄ちゃんを手伝う理由。
まだ二人が小さかった頃、カトマンズにいるお父さんに会いに行くのに、故郷のコタンから一番近いバス停まで3日3晩、山を超え、谷を超え、兄弟連れ立ってよく歩いたのだそうだ。
途中寄り道をして川に飛び込んだり、虎の鳴き声がする時には安全な場所に隠れてやり過ごしたり。予定時間をだいぶオーバーしてカトマンズ行きのバス停にたどり着く。そんな道すがら、サテは先頭をゆくお兄ちゃんの頼もしい背中を見るのが好きだった。
「I like his walking style.」
シャラドの作ったYouMe schoolの運営を、現地でバリバリに支えているサテは、あの頃から変わらない、目的に向かって真っ直ぐ歩いていくお兄ちゃんの姿をこれからも見ていきたいのだと言っていた。
川沿いのレストハウスを明け方に出発して4時間ほど車で走ると、旅の目的地コタンに到着。ここで1泊してまたカトマンズに戻る。
見えてきた校舎は当時2階建てで、まだ工事の材料が増築途中の1階の屋根の上に積みあげられていた。コンクリから突き出た鉄の突端を見つめていると、あぁこの校舎は人が手作りで作っているのだということがわかる。校舎の建築資材の手配から工事の全てを一手に引き受けているのは、シャラドの親戚バスダイ(ダイはお兄ちゃんという意味のネパール語)。
この学校は、日本で、ネパールで「人」が作っているんだ。
「国に恩返ししたい」「教育で国を変えたい」
シャラドの夢をサテが受け取って、現地の先生たちにまたその夢が伝えられて。今、この時間もコタンのYouMe schoolは動いている。一人の青年が思ったこと。その背中を見て育った妹が思ったこと。
9年経って、完成した校舎。
2015年、旅をした時には成立していなかったネパールの憲法も2017年の9月には可決されたそうだ。ネパールという国も「人」が作っていて、少しずつ前に進んでいる。
次にコタンへ旅に出るときには、何かがもう少し便利になって、移動の時間もさらに短くなっているのだろう。YouMe schoolを卒業した生徒さんが、学校の先生になって戻ってくる、なんて嬉しい日も数年後にはやってくるのかもしれない。
シャラドが一人で始めたことが、もう一人のものではなくなっている。日本にいるわたしたちも、スキあらば何か手を動かせることはないかと、心にいつもYouMe schoolのことを思っている。