Bittersweet journey.(Bitter 編)

「走れメロス」の冒頭の一文、なんだっけ…

メロスは急いでいた。ではないよね。

メロスは息を切らしていた。違うな。

メロスはひたいの汗を拭った。これも、違う。

メロスは歩を進めた。そうだったかなぁ。

メロスは走り続けた。なんだっけ、なんだっけ。

あぁ、どれもこれもしっくりこない。

確か

メロスは◯◯◯た。

なんだよな。 

そんな事をぐるぐる考えながらひたすらパリの街を闊歩していた。

なぜ中学校の国語で習った「走れメロス」をパリで反芻しているかというと私自身、時間までに目的地に辿り着かねばならない状況だったからだ。

クリニャンクールの骨董市でお皿やポットなど諸々買い上げ、ショッピングバッグが満杯になり、さて地下鉄に乗るか、というタイミングでバッグから財布が消えていた。

確かにお皿を買った時に、「お金やカードを分散して持った方がいいかな」などと頭によぎったのに、なぜかそれをしないままでいた。

肩から下げてるポシェット型のバッグに手を入れて地下鉄カードをだした瞬間から何分も経たず、ふと不思議な気分に。

バッグが少し軽い気がする。

あれ、こんな重さだっけ?

まさか?

いや、あれ?

ない!!

いや、絶対あるよ!ないわけない!

こんな事可能なんだろうか。

バックパックに入れていたならともかく、ポシェットは私の前身にあるのに?!

気づかないなんてありえなくない?!

財布が消えた現実を受け入れたくなくて、大きなショッピングバッグに財布があるのでは?なんてガサガサ探したけれど、あるのは梱包材に包まれた皿とポットのみ。

いや、本当は気づいてる。

財布はない。

すられた。

一瞬、頭が真っ白になり、目の前は真っ暗になり、心臓の鼓動が激しくなる。

なぜか、渡ってきた横断歩道をまた戻る。

今来た雑踏に目を凝らす。

まさか取り返せるとでも思ってる?

アホか、無理に決まってる、もう手遅れだ。

特に意味なく人通りが少ない反対側の歩道に渡る。パニックに落ち入り完全に挙動不審だ。

歩道の端にじっと立ち尽くし、現実を受け入れるしかない。

はぁ。落ち着け、自分。深呼吸をして。

スマホはある。

パスポートもある。

車の鍵もある。

とにかく待ち合わせの駅に行こう。まだ時間はたっぷりとある。

駅にWi-Fiがあるはずだから調べてカードを止めよう。

冷静を装いつつ地下鉄の駅に向かう。なぜか警察が数人、改札前にいる。

訴えてみようか。

「すみません、財布をこの駅の近辺ですられました」

警察官、一瞬眉を潜めながら

「擦った奴の顔はみたか?道にでて、「この人がやりました!」って僕たちに指示できるか?犯人が確定できないならこちらからしてあげられることはないんだ。とにかくカード会社がやる事だからすぐカードを止める。どこで擦られたか報告する。それだけやるんだよ。申し訳ないけど僕から言える事はそれだけだから。気の毒だけど僕の業務外だ。」

彼の慈悲的な瞳とは裏腹な厳しい現実感ある言葉に納得させられる。

「わかりました…」

そうだよね。擦られた人がわからないのに捕まえるなんて無理だ。

そう思いながら朝買った地下鉄のパスを改札にかざすも、通れない。三回かざしても改札ドアが開かず、後ろに並ぶ人達の怪訝な眼差しで、諦めざるをえなくなり。

忙しい都会で弾かれる鈍臭さ。

なんで使えないの?これ1日のパスのはずなのに。

そうか。歩くしかないかも。

スマホのバッテリーを確認。ダメだ、バッテリー少なすぎてスマホの地図は使えない。運良く観光案内所で紙の地図をもらっていた。

今時、紙の地図なんて、などと思いながら手に取った地図がまさか3時間後に1番必要になるなんて。

待ち合わせのリヨン駅、距離かなりあるな。1時間以上は余裕でかかりそう。

時計は間もなく16時。

待ち合わせまでまだ1時間40分ほどある、きっといける。

公衆トイレに並ぶ男性に道を聞く。

「すみません、リヨン駅にはどこの道を行けばいけますか?」

「そこから地下鉄乗って…。」

「いや、地下鉄じゃなくて歩いて行くんです」

「歩いて?!凄く遠いよ」

「知ってます」

男性、ため息をつき苦笑いしながら道路を指差して

「This road  walk and walk walk, and more walk. Ok?」

「Ok, Thank you. Merci」

男性は苦笑いをしたままグーサインをする。

私もお礼を言いながら、無理やり口角を上げ苦笑いで立ち去る。

この距離感、例えるなら

観光客から

「北千住から東京駅どうやって行けばいいですか。」

と聞くようなものだ。

徒歩圏内ではない。人は当然ながら地下鉄またはJRの行き方を教える。

相手が「いや、歩いて行きます」なんて言おうものなら「え…。大丈夫この人?」と私も全く同じ反応をする。

でも、今の私には歩くしかない。

だってUさんは17時46分にリヨン駅に着くんだ。

行かないと。絶対に、会うんだ。

財布を擦られた一部始終を考えだしたら後悔と自分への怒りが沸々と湧き出る。

あー、私バカだな。

きっと標的にされて後をつかれていたのかもしれないな。わかりやすい観光客姿で、荷物抱えて。

何やってんだよ、一人で長旅してた時はお金は分散してたのに。ポシェットやバッグにも常に小銭が結構あるはずなのになぜか、今日に限ってないなんて。

旅慣れてるけれど今まで物を盗られた事がない。って言っていたのが。

怠慢だな。驕りだよ、だからこんな目に遭うんだ。

自責の念が止まらない。後悔したって財布は戻ってこないのに。

地下鉄の駅が見える。よし一つ近づいた。

すごろくのコマを進めるように、駅が一つ一つ近くなる。

行ける。絶対に行くんだ。

手に握りしめた紙の地図と地下鉄の路線図を見比べる。

ペットボトルの水も足りるだろう。お昼の時に少し足しておいた自分を褒める。

地図と水。あって良かった。

天気はいい。気温は20度越えるくらいか。

ガシガシと脚をひたすらに動かしていくうちに羽織っていたジージャンが肌にまとわりついてきた。

既に風船のように膨らんでいるショッピングバッグにジージャンを詰めて、汗を拭いまた歩を進める。

子供の頃から運動神経は悪いくせになぜか歩くのは速く、持久力はそこそこあると自覚しどこに行ってもよく歩く。

14年前にパリに来た時も宿泊していたモンパルナスから市の中心地までずいぶん歩いた。

パリに来たのは2010年以来です。

12年前にはフルマラソンの準備をしていた。

山手線一周も一人で走り、旅の間にイタリアのヴェニスのマラソン大会でフルマラソンを完走、その2ヶ月後にキリマンジャロに登頂した。

東京マラソンに落選したので悔しくて「一人東京マラソン」と銘打って山手線一周した2012年の冬。37kmだそうですよ。
ヴェニスのフルマラソン。全編大雨という悪天候。

今も朝たまにジョギングをし、その後も子供達を学校に送るために歩く。

(もちろんこのサイトには若岡さんというプロフェッショナルがいるので私ごときのアマチュアの話をいくらしたところで同じ土俵には絶対上がれないんですけどね。)

自慢の健脚がこんなところで功を奏すとは。

フルマラソンに出場した後だとキリマンジャロ登山がまぁまぁ楽勝だということに気づく。標高約6000m。2012年クリスマスの朝に山頂に。

久しぶりの一人旅。

花の都パリ。レストランやカフェや可愛いお店の前もどんどん通り過ぎるも全て素通り。

写真なんか撮れる心境ではないし、そもそもスマホのバッテリーも、時間もない。

歩きながら、後悔よりも自分のいる場所がどこか、目的地に行くのに外れてはいないか。に集中するようになった。

たまに、「走れメロスの冒頭はなんだったかな…」と太宰治に想いを馳せたかと思えば、ファンじゃないし自ら好んで一度も聴いた事もない「なんでもないような事が幸せだったとおも〜う〜」のフレーズのみが脳内再生される。またこの曲か?!

そういえばコロナのロックダウンの時は常にこれだけが再生されてた。

ジョージ。あんたの歌詞その通りだよ!

もはやジョージが好きかも。

いや。絶対それはないんだわ。

それにしても、スリって本当に凄い。噂には聞いてたけどあの人たちまさに一瞬で盗る。プロだわ。

何回考えても理解できない。どうやったら私の前身にあるポシェットから財布を取れるのか。

そのからくりを考えたところで「一体どうやって?」にしかならない。

一瞬。本当にまばたきくらいに秒でやったに違いない。

神業。

てじなーにゃ。

頭をぐるぐるする「独り言」。

必死だけれどどこかで苦笑いする自分もいる。

そういえば、長旅をしていた時にもローマでスリ未遂には遭ったなぁ。

ローマではここに行く前の人混みでスリ未遂にあった。

人ごみの中を歩いた後で気がついたらショルダーバッグのポケットが全開だった。そこにはいつもiPodを入れていたから宿に戻って

「やられたー!」とゲストハウスのフロントのお兄さんに嘆いた。

お兄さんは特に表情一つ変えずに「ナポリではスリに遭わなかった?ナポリの方が悪名高いけどね。あの人達プロだからね。イタリア人でも被害に遭うよ。背の高さがちょうどいい子供使うんだよ。本当にきをつけてね」なんて話してた。

その後よくよくバッグを見たらその日に限ってiPodはバッグのポケットに入れてなくて結局無事だったのだけど。

ナポリの路地裏。雑然と生活感があるのも好きだな。

歩き始めて1時間経った。よし、かなり近づいた、時間内に行けるよね?

目の前に現れた地下鉄の駅名と地図を見比べる。あ、まずい。目的地から外れてきたから軌道修正しなきゃ。

地図の道を見つけて歩く。そろそろ人に聞こう。インド料理屋に入り、休憩中で寛ぐ従業員に声をかける。

「ボンジュール。すみません、リヨン駅まで歩いて行きたいのですが」

スタッフ内で英語が話せる男性が出てきて私の地図を覗き込む。

「ここをこう行って、ここ曲がって、またまっすぐいって、だいたい30分くらいかな」

「ありがとう。」

時計は17時ちょっと過ぎ。ギリギリ行ける。大丈夫だ。

またしばらく行き。今度は花屋さんで念の為に道を再確認。

汗ばんだ額、血走った目で、息が荒い「切羽詰まった」女が今時、Google mapすら頼れずに紙の地図を握りしめて道を聞くと、人はとても親切だ。

英語話者がいない花屋さん、それでもフランス語で懇切丁寧に、今度は地図にしっかりとボールペンで書き込んでもらった。すみません、フランス語ロクに話せなくて。merci!

本当は世の中は皆善人者で、スリなんかいなくて私がうっかり財布を落としただけなんじゃないか?

財布はきっと届けられてるはず!きっとそうだよ!私がいる世界は優しい世界、なんて勘違いしそう。というか勘違いしたい。

もしかして財布はリュックに入ってたりして。テヘペロ。とか言って笑い話にならないかな。

あと、20分。

これ。本当にギリギリなんだな。

交差点の道路標識にリヨン駅がやっと現れた。ここに沿って行こう。

早歩き度が上がる。

私、競歩のパリオリンピック出られるかもよ?

17時40分。

やっと大きな駅舎が見えた。

あぁ、やっと!!

心優しきパリの皆様のおかげで無事ゴール!!!

サライの曲歌いながら黄色いTシャツ着ている人はいませんかね。

左腕のfitbitは17時44分。電車到着2分前、ギリギリだ!

朝、空港からのシャトルバスからのチャットの時には「早めに駅についてお待ちしてまーす😆」なんて呑気に返信したから、いつまでも連絡がなくてきっとUさんは不審に思っているはずだ。

早く駅のWi-Fi繋げなきゃ。

残り僅かなスマホのバッテリー。チャージ場所見つけた。ケーブルを出してチャージしながらWi-Fiに接続する。

ベンチに腰掛け、肩にずっしりきていたバックパックとショッピングバッグの重量を認識する。

歩くのに必死すぎてバッグの重さなど感じなかった。

ふいにスマホにメッセージが届く。

銀行からのショートメッセージだった。

We placed a hold on your card. Is transaction for €37.70 at MC DONALDS on card ending 9770 yours? If so reply ‘1’, if not reply ‘9’.

あ。やっぱりカード盗まれて犯人は早速マクドナルドに行ったか。

いや、99%盗まれたとは思っていたけど、ま。ないわな1%の奇跡。

それにしてももうカードを不正利用されていると疑われるのも凄い。

財布には現金少しとカードと在留カード、お店の会員カードなど。

クレジットカードは止めればほぼ痛手ないんじゃないか。

Wi-Fi接続。三回エラーがでる。

繋がれ。繋がれー。

Uさんから返信が。繋がった!「電車遅延してます」
良かった!

今いる場所の写真を送る。

「チャージしながらホール1のベンチにいます」

ふと、Uさんの後ろ姿が見える。

「あ!Uさん!」

思わず声がでる。

隣に座る男性が訝しげに私を見る。

変な言語でうるさくてごめんなさい。

あぁ。よかった。もうこれでほぼハッピーエンドだよ。

私を探しているUさん、キョロキョロ辺りを見回している。

早く行かないと。スマホのチャージャーを片付け、バッグをまとめかけたところでUさんが私を見つけてこちらに来た。

良かったー。

「すみません、早く駅に来るつもりが色々あって来れなくて。」

「ううん、連絡ないから何かあったのかなぁとは思ってたけど。どしたの?」

「Uさん、報告があります。財布を擦られました。お金貸してください!!」

Uさん、目を見開き呆気にとられる。

「え〜!嘘でしょ?冗談だよね⁈」

「冗談だったらいいなぁ。でも本当ですよ、さっきもう銀行から不正利用のショートメッセージ来たので」

「旅慣れてる飯塚さんなのにそんな事あるんだ!!大丈夫?怖い!」

そこからバスに乗ろうか、などと言いながら駅を出て、結局、歩き続けた私を心配したUさんは

「じゃタクシーでアパルトマンまで行こう」

とそのままタクシーに乗り込んだ。

予約しているアパルトマンまでの車窓を見ながらやっと街の景色が冷静に見える。

本当にピンチだった瞬間を切り抜けて、会うはずだった人にあえて安堵の涙なのかほんの少しだけ目尻が濡れながらも笑ってしまう。ずっと緊張感で張り詰めていた糸が切れた。

子供の頃に迷子になった時、待っている間は涙なんか一滴も出ないのに、母の顔を見た途端に滂沱の涙が零れ落ちる、そんな記憶を思い出す。

こちとら白髪も生え始めたおばちゃんだけどな。
ピーターパンか!

ここはネバーランドというよりは飢えたハイエナが彷徨う修羅の世界。

車内ではスリにあった一部始終を話しつつもなにしろ盗られた瞬間は気づいてない。

「あれはマジで『てじなーにゃ』です!あの人達プロなんですよ!凄いよ!」

ってあんたが絶賛してる場合じゃないんだよ。

というわけで。

子供達置いてきて楽しいウハウハなパリの休日の話だけをしたかったのに。

パリでてじなーにゃにあった話になってしまった。

ちなみにこの日はクリニャンクールの骨董市を見て周り、パリのリヨン駅まで鬼歩きして34000歩を越える新記録更新。

奇しくもパリでハーフマラソン距離を歩いたらしい。日本縦断した若岡さんは一日何万歩走っていたのだろう。

夕飯はアパルトマン近くのレストランで白ワインエスカルゴ、オニオングラタンスープ、テリーヌなどで乾杯しましたとさ。

とりあえず祝杯。ワインと美味しいものを友達と食べられるだけで幸せなのだ。
本場のエスカルゴは大きいね。

追記

「走れメロス」の冒頭は

メロスは激怒した。

だそうです。

西果て便り

(毎週木曜日更新)
世界放浪の後にヨーロッパの西端アイルランドに辿り着く。海辺の村アイリッシュの夫、と3人の子供達(息子二人、娘一人)と暮らしています。