34年目の習い事

(今期の授業で使う教材、ガイド・通訳・翻訳と多岐にわたりすぎてパンク)

ニーハオ、ニホンコンです。
小5から始めた中国語の習い事が、今だ仕事として
続いているという衝撃の事実。

そもそも話

そもそもなんで中国語?と聞かれることが多いので
時を戻して話そうと思います。

時は昭和。西暦でいう80年代。

突然母が「中国語やらんかね?」声を掛けてきた。ええー?!

当時の中国はまだまだ日本で情報が少なく、母も子も
「パンダの国」程度の知識。

小学生だった私は、チューゴクゴが何なのかも不明だけど
子どもながらの好奇心ゆえ、あっさりと母の口車に乗りました。

(豆腐の細切りのピリ辛の野菜と香菜と・・大好きです)

さて、始まりました

母と私、駅前のカルチャーセンターで新規開講される
中国語教室に入ることに。

当時の在籍者は、中国に出張に行く、自動車会社の部長さん、
中国文学に陶酔した20代くらいのお姉さんとお兄さん。
そして母と私。

私みたいな子供が混じってることに、びっくりした
そのおじさん。真剣なまなざしで

「えーと、君は、中国残留孤児かな?」と。
いやいやいや!それブラウン管の向こう側の話ですから!

その頃テレビで毎年のように行っていた残留孤児の帰国支援。そこと
結びつけない限り、小学生が中国語を学ぶ理由が見当たらなかったようです。

母が習わせた理由

後で聞くに、母は私に「何か一芸を」と思ったらしく。
英語ではなく中国語なら「ニーハオ」って言えるだけで
特技になると思ったとか。

(令和だと小学生にミャンマー語を習わせるくらいの感覚かな?)

(スパイシーな羊肉串、手加減無しのリアル中華が大久保で食べられます)

オイオイ、オイッ!

一生懸命発音から初めて、ようやく次のステップにいける
と思った翌月・・

なぜか母はしれっと教室から消え、淡々と私の
送り迎えだけにやってくるドライバーに転身していた。

ちょちょちょ!待てい!

最初からその気だったのか、音を上げたのか知らないけど
すっかり「ただの保護者」。

スーパー腑に落ちないものの、「私も辞める」にはならず
毎週せっせと通っていました。

マイナー言語時代

当時、中国語は巷ではマイナー言語。加えて地方都市の
カルチャーセンター。

母をマイナスとした4名ではお教室として継続ができず、閉講。

誰かがどこぞやの開講情報を聞きつけては全員で移籍し、
その講座もやがて閉講になるという負のループ。

もう「沈んだ船から乗り換えてまた沈む」みたいな。
BGMは乗り物違えど「ドナドナ」・・。

(一番下のビーフンください!)

辞めたいと思ったこと

中学生くらいの時に、中国語学習に意味を見出せなくなり
一度だけ母に「やめたい」と伝えたことがありまして。

そりゃそーだ。別にやりたくて始めたワケでもなければ、
言い出しっぺの母も早々にトンズラしたワケで。

でも、母は「辞めるのはいつでもできるから、続けてみな」と、
低モチベーションの習い事にも関わらず、お月謝を払ってくれまして。

で、結局ここからずーっとダラダラと続けていたら、ハタチ
くらいで「学習歴10年」を迎え。

あまりに上達していない自分に焦りまくり、北京に飛びました。

(ビニール袋!)

一応10年やってましたくらい言える程度の語学力を獲得すべく
現地の学校で腰を据えて勉強をし(据えていたかは知らんけど)、
そこからまたダラダラと続けて今に至ります。

これを話すと皆、必ずこういうのだ。

「おかあさんの先見の目!」と。

やめて!百万回言われてるので、鼻の穴膨らみすぎて風船になってマス。

そして私も、何で辞めないのかも今だ分からないけれど、
どこかに中国語の神様が続けなさいと言ってるみたいで、
やれるだけ頑張ってみましょうかい、といった感じです。

(色は茶色だけど、味は間違いなし)

7月7日 ニホンコン

ニホンコン

(毎週火曜日更新)
北京と香港に住んでました。今は湘南に住みながら中国語や異文化の先生をしています。ちなみに3人娘のおかあさん。

HPはこちら