獣道と心地よさ
気がつくと獣道をたどっていた。
地図で見ていた登山道から、いつの間にか外れてしまった。獣たちが歩く道の方が、気持ちよく歩くことのできる道だった。さて、どうしたものか。地図を確認する。
たどろうと思っていたのは、となりの尾根。街中でいうと曲がり角をワンブロック間違えたようなものだ。その1区画が山の中では大きい。次の角を気軽に曲がって、目的地へ。とはならない。藪や崖に阻まれていけないかもしれない。
引き返して予定していたルートに復帰するのが定石である。もっとも、事前に考えていたルートがきれいな登山道である保証はなかった。トレイルランニングの大会に向けて、コースをつくるために現地を調査するのが今回の目的だった。地図上では、登山道や林道が記されていても、たどってみると既に廃道に化していたり、道が自然に還ろうとしていたりというのはよくあることだ。
道を間違える前までの歩みは、踏み跡が不明瞭で、ヒトが入っている気配は薄かった。藪を漕ぎ、倒木をまたいで、時にはくぐる。蜘蛛の巣を顔に浴びては、いばらに引っかかる。
それも楽しいのだが、心地よさはさほどない。そこに、歩きやすい獣道の登場である。なかば無意識にたどってしまうのも無理はない。イノシシが行き交い、踏みならしてくれた道は、とても歩きやすかった。
いま立っている尾根をこのまま進めば、舗装路に至る。当初とは違う場所に出るが、大きく離れているわけでもない。途中で踏み跡がなくなっても、舗装路へは強引に進めるだろう。それが無理なら引き返せばいい。
獣道がどこまで続いているのか、見てみることにした。
イノシシが頻繁に通っているのだろうか。足元はきれいに踏み固められている。ずっと使っていないと、こうはならない。腰より上の高さは藪が茂り、背の低いトンネルになっていた。
藪になってはいるが、足元に歩きづらさはない。体で押し分ければ、スムーズに進めた。
歩きやすい、心地よさを感じるというのは、野生動物も同じなのかもしれない。
動物たちが踏みならした道をヒトも使う。通りやすいように手を加え、徐々に整備されていく。山越えでとなりの集落へと至る生活道や古道も、はじまりは同じようなものだったのだろう。道の近くにはヒトの存在が感じられる。
一昨年前に、本州の山々をつたって縦断していた時には、山を貫く道路があった。まっすぐに伸びた道は、その周辺に生活を感じさせるものが何もなかった。地図を見て最短距離だからと、つくったような印象だった。合理的で無機質。自然発生的につくられる道とは対照的である。この獣道にも合理性はあるのだろうけど、最短で進むことよりも、心地よく歩けることの方が優先されていた。
通るものがいるから、道は道であり続ける。反対に、誰も通らない道は道ではなくなる。
最短の舗装路がいつか自然に還ったとき、そこを通る獣はいるのだろうか。そんなどうでもいいことを考えながら、山をうろつくのであった。