ひとつずつ終わるもの

鬼は外、お面を作ってくる保育園時代が一番盛り上がる

ニーハオ、ニホンコンです。

あれれれれ、子どもたちが大きくなっている。
そして、とうとう日々の「お迎え」が終了するかもしれない。

毎日誰かを送ったり迎えに行ったりする生活が、1号保育園から数えると
15年ほど続いている。

もはや歯磨きのごとく、いや歯磨きは忘れて寝ちゃってもOKだけど、
お迎えはそうもいかないので、歯磨き以上に日常習慣化している。

先日3号と話していた時に、急に「来年度は学童いかないかも」
宣言があり、いきなり「15年に渡る送り迎え卒業」を突き付けられた私。

謎の仮想大会は今もよくやっている

「やったー!おめでとう!この長かったドライバー生活、あばよ!」

と心の中の柳沢慎吾が叫んだと思ったら、逆!逆なのよそれが!

あまりにも日常に染み付いていたものが無くなるということで、逆に
ぽっかりするような気持ちになる。

自転車に2人乗せていた時代もあれば、車で保育園と学童の2か所
お迎えに行ってた時もあり。

都内仕事の時はダッシュで帰る日々、間に合わない時期は7時まで
延長。真っ暗の中、車を走らせて滑り込みセーフでお迎え。

そのリズムがあまりにも日常に溶け込みすぎて、逆にそのルーティーンが
無くなることが想像がつかない。

自分の一部がなくなるような、そんな妙な気分になっています。

子育ては楽じゃない。

子どもたちが小さい頃は、日常的に頼れる手がなく、持てる武器といえば
自分の両腕と両足と、小さい車くらい。要は丸腰、今どきの言葉で言えば
ワンオペとも言います。

ゆえに、かなり家のほうに軸足を置きながら働くスタイルを長いことしておりました。

母「〇〇の人ー?」「はーい!」が盛り上がりすぎた絵

「おおおお迎えのない日々が来るだと?!」

それも仕方がありません。子どもは大きくなります。

私だけがそのまま「お母さん」のままなのかもしれません。

もう、存分にちらかしやがれ、の図

小さい子ども3人とお風呂に入り、その足りなすぎる手に母マッパで
子たちらを拭きながら「今日が一番大変な日、明日は1日分育つから
チョビットだけ楽になる」と思って自分を励ましていたっけ。

実際、ホントに育ったら休みの日に全員ぴゅーっと遊びに
行ってしまい、楽になりすぎて恐ろしいほどヒマができる。

あれ?どうしたんだろう?とやや慌てる自分がいて、あれ?オイラ
意外にも子煩悩 or ただの自分勝手?とよく分からなくなる。

「ねー、何して遊ぶー」って鬱陶しいほどまとわりついてきたのが、
昨日のことのよう。

こないだの写真と思ったら4年前。赤ランドセルはもう高校生

長い長い子育ては、ややもするとどこかへ飛んでいく凧みたいな自分を
いつの間にか、しっかりとそこに根を生やすしぶとい植物みたいな要素を
与えてくれました。

お迎えは、私が働く人からお母さんに戻る節目の儀式みたいなものでした。

それでも、ひとつずつ終わるものは確実にやってくる。

その時に今みたいにいちいち慌てないよう、目に見える娘っこたちを
「今日が一番小さい日」と思って、まだまだお母さんをするとします。

11月29日 ニホンコン

ニホンコン

(毎週火曜日更新)
北京と香港に住んでました。今は湘南に住みながら中国語や異文化の先生をしています。ちなみに3人娘のおかあさん。

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