終わらない1日
モイ、わかおかです。
フィンランドなあいさつで始めましたが、8月が終わるとともに、涼しかったヨーロッパから帰国しました。
日本は暑いです。秋が本格化すればいいのに、と心底願いつつ、今回は帰国する機内の中で、気まぐれに書いたテキストをお届けです。前日のニホンコンさんの記事とタイトルがかぶり気味なのは内緒です。
==============================
つけっぱなしのテレビから音が漏れてきた。耳を澄ますと、ニュースキャスターは朝にふさわしい声で、新しい1カ月の始まりを告げていた。
僕はいつものように頭を抱えてしまう。もう朝が来なければいいのに。うんざりする。でもそれは無理だということを知っている。そして、これから起こることも分かっている。僕にとってうんざりすることではあるが、誰が悪いわけでもない。
1台の車が止まる。聞き慣れたエンジン音だった。何の連絡もない、突然の訪問だが、驚きはない。
鈍い金属音に合わせてドアノブが回る。コツコツという乾いた音が滑り込んできた。ヒールの高い靴が地面をたたく音が響き渡る。
鍵は開けておいた。閉めっぱなしにしていたら、ドアを壊されそうになったことがあった。
「また来なくてもよかったのに」。リビングに入ってきた彼女に冷たく言い放つ。
「そういうわけにはいかないわ。もうやり直せないの?」
繰り返されてきた問答が始まる。その内容は多少の違いはあれども、だいたい似たような内容だ。ふたりの関係性について、だ。
何度となく繰り返してきた。いつまで経っても変わらないやり取りに僕は怒りを覚え、思わず本音をさらけ出してしまった。
「これで何回目なんだよ。やり直しなんて聞きたくもない。うんざりだ」
これまでにない僕の言葉に、彼女の表情が一瞬くもる。が、すぐに感情を隠し、彼女は見たことのない反応を見せた。
僕をまっすぐに見つめていた。静かに、目を逸らすことなく。そして、静かに言った。
「時間が巻きもどればいいのに」
切実さがこもっていた。とても純粋だった。その純粋さゆえに無神経に感じられ、僕をさらに苛立たせる。
「時間は本来、一方的に流れていくものなんだ。だから尊いんだよ。巻き戻りはしないし、繰り返すべきじゃないんだ」
僕は語気を荒げてしまった。行き場のない、ほとんど八つ当たりに近い感情だった。声を張り上げたことで、彼女がビクッと体をこわばらせる。小さく震えている様子を見て、ふと我にかえった。
「ごめん。君が悪いわけじゃないんだ。僕の問題なのに」
そう、僕だけの問題にもかかわらず、あまりに感情的だった。怒る必要などなかったのだ。
それっきり、僕たちは向かい合ったまま、長い沈黙に包まれた。初めてのことだ。
彼女が取り乱さずに静まるなどとは思いもよらなかった。
僕が黙り込んでいたのは、その動揺もあった。静寂の中で振り返る。どうして、別れ話になってしまったのだろう。記憶を辿ろうとするが、もう理由は忘れてしまった。
はるか昔のことだ。彼女にとっては、最近のことかもしれないが、僕にとっては過去にすぎなかった。ひどい話なのだが、理由がなんだったのかは忘れてしまった。なにか許しがたい出来事があったはずだが、忘却の彼方に遠ざかっていた。いま思えば、僕にも悪いところがあったのだろう。
大切なのは過去ではなく、現在だ。今までとは違う反応に、これまでとは違う結末を期待してしまう。
僕は新しい1日を待ちわびていた。なかば諦めつつ。
彼女がついに口を開いた。
「私こそ、ごめんね。私が悪かったの。やり直してほしいの」
皮肉屋で本心を口にしない彼女には珍しく、先ほどと同じく素直で切実な言葉だった。
いや、珍しいどころか、初めてかもしれない。
彼女は自分の思いを伝えると、うつむいて声を出さずに涙を流しはじめた。ほこりを被った床がぽつりぽつりと水滴で濡れていく。
見たことのない彼女の一面だった。声を押し殺し、わずかばかりの嗚咽が漏れる。心を打つ美しさがあった。僕はそばに近づき、そっと抱きしめた。
涙声で彼女が「本当にごめんね」と言葉を絞り出す。
「なにも言わなくていいよ。すべて分かっているから」
それは嘘だった。本当のところ、僕は何も分かっていなかった。どうしてこんな状態になったのか。それさえも分からない。
僕の胸に顔をうずめたまま、彼女は顔を上げようとはしなかった。代わりに、僕の背中に回した両腕で強く抱きしめてきた。その手は震えている。心から後悔しているのだろう。
「いいんだよ。たぶん、また元通りだから」
僕はささやく。また元に戻るのだろうか。分からない。これまでの経験則からすると、いつも通り繰り返されるだろう。そこに僕の意志はなんら介在しない。
内心では、僕は新しい展開を期待していた。そんな日は来ないと思いながらも。彼女はしゃくりあげつつ、「ありがとう」と「ごめんね」を何度もつぶやく。
胸元に冷たさを感じた。ずっと顔を押し当てている彼女の涙だった。過去にもこんなことがあったな。あの時は、決別の涙だったが、今度は真逆だな。ほろ苦い記憶に、わずかばかりの懐かしさを感じた。
彼女のつややかな髪をなでる。細くて柔らかい。シャンプーの香りが漂ってきた。
こんな匂いだっただろうか。思い出せなかった。記憶をたどろうと、手櫛で髪をかき上げ、さらさらと落としていった。やはり、記憶の糸を辿ることはできなかった。
ずいぶん長い時間が経ってしまったのだ。彼女にしてみれば、それほどではなくとも。
いずれにせよ、細かいことなど、もうどうでもよかった。
幸せな1日の終わり。今この瞬間がずっと続けばいいのに。あるいは時間が止まればいいのに。
心の底からそう願った。無駄だと知りつつも。それでも、目を閉じて願わずにはいられなかった。
祈りとともに。どうか明日が新しい日でありますように。
つけっぱなしのテレビ。聞こえてくる声。分かっている。
ニュースキャスターが新しい1カ月の始まりを告げた。
僕は頭を抱えて絶望する。これで何度目だろう。僕はまた同じ朝に戻ったのだ。
同じ1日をずっと繰り返している。
そのたびに、明日を迎えるために、いろんな行動を取ってきた。復縁したり、別れ話をスマートにまとめたり、彼女と会わずに朝早くから出かけたり、彼女をこの手にかけてしまったことも。自分の命を絶ったこともある。
試行錯誤を繰り返してみるが、決まって同じ朝が訪れるだけだった。
「時間が巻きもどればいいのに」という彼女の言葉に苛立ったのは、この奇妙な出来事のせいだった。
どんな形であれ、今日が終わり、明日が来ることを望んでいる。
もう、やり直したくなどない。