無駄なガッツ。
とっても久しぶりに会った友達に「あんたはたまーに無駄なガッツを発揮するからな」と言われた。その日はスケジュールの詰まっている日で、すぐに次に移動しなければいけなかった。その言葉を気に留めている暇はなかったのだけれど、言われた瞬間少しだけ落ち込んで、その後は笑ってしまった。「無駄なガッツ」私をよく表している言葉だなと、時間が経つほど思う。思いがけず受け取った言葉がこの1週間ずーっと沈んでは浮かんでくる。
自分以外の人から見たら、確実に無駄に見えたであろうガッツを一番がむしゃらに発揮していた20代に、とてもお世話になった先輩が亡くなったという連絡をもらったからかもしれない。無駄なガッツを持ってしないとその人には太刀打ちができなかったし、先輩の無駄なガッツががっちゃんこして、一見それは無理だろうと思うことが叶ってしまうこともあった。
4年ほど前に日本橋の寳田恵比寿神社のそばで、ばったり会ったのが最後だった。お互いの職場からだいぶ遠いところで、あまりにも偶然に遭遇した驚きがあったからか、ぶわっと温度が上がって短い時間で畳み掛けるようにたくさんのことを話した。でも、明確に覚えているのは一言だけ。「あの頃みたいなものの作り方は、もうできないんだよ」何かを実現するためにできる方法を考え尽くしていた先輩が言いそうにないセリフ。皮膚の一部になってしまったトゲのように、今でも時々チクリと疼く。
胃がキリキリ痛むようなガッツを発揮できる体力がないことは明確だけれど、今はもう少し要領よくやれてしまう部分もある。今の歳になって一緒に何かを作るとしたら、どんなことをやったんだろう。あの頃のように床に転げ回って笑ってしまうような何かを作ることができたかな。感傷に浸るわけではなく、妙に具体的にあれこれ考えてしまう。
簡単に言葉にしたくないはずのこの1週間は、「無駄なガッツ」という言葉とともに案外強く記憶に残ってしまいそうだ。
もうちょっと面白くできるんじゃないかって、抗ってみます。先輩。
どうか、皆様。
何か好きなものを見て、ちょっとおいしい物を食べて、ぼーっと何もしない時間を持っていただける週末でありますように。