どうか、ご無事で。
おはこんばんちは。飯塚です。
ウクライナで戦争が始まってしまいました。
その数日前からニュースではロシア軍が先頭準備している、などと報じられていましたが、実際に戦争になるとは想像出来ませんでした。
私の夫は10年前にウクライナに2年半ほど住んでいました。
ボート建築業でウクライナに行き、数ヶ月仕事をした後、英語が通じない為にそのままウクライナに滞在しロシア語を勉強したのです。
23日、ロシア、ウクライナ事情にも多少詳しい夫に
「ウクライナ、大丈夫かな?」と聞くと、
「さすがに攻めてはこないでしょ。ウクライナにいる友達も大丈夫だと思ってるみたいだから。」
と。
それぐらい、現地の人にとってもロシア軍の侵攻は想定外だったのです。
夫は安否を確認すべく友人とも連絡を取っていました。ただ、24日以後しばらく連絡が取れなくなりました。今週火曜、連絡が来たようでホッとしていました。
先週から続々と近隣諸国に避難しているウクライナの人々。
ただ、18歳から60歳の男性は兵力としてロシア軍と戦う為に国に残らなければならないのです。
自分の身に置き換えて考えると、それがいかに過酷な事か。
言葉もありません。
新聞には、第二次世界大戦以来の初のヨーロッパ初の戦争だと載っていました。
たまに日本人でロシアの事をヨーロッパと呼ぶ人がいますが、ロシアはロシア。
西側諸国はロシアをヨーロッパだとはみなしていません。
今回ヨーロッパ各国はウクライナを支持しています。
ウクライナ難民の受け入れ。武器、資金の提供。ロシアへの経済制裁。
これはロシア対ヨーロッパの戦争。ウクライナに軍は出さずともできる限りの支援をする。なんとしてもウクライナ奪還を阻止しなければならない。
でなければ、力さえ有れば国を侵略できる事になる。
犠牲者をこれ以上出さない為にも1日も早い終息を願うばかりです。
2012年8月、ブタペストからキエフへ。
私も2012年に旅で立ち寄ったキエフ。
ハンガリーのブタペストから夜行列車で24時間位かかったような気がする。
寝台列車の個室は3人部屋。
ブタペストからは私一人だったのでラッキーだと思っていたら、夜中近くの停車駅で高齢の女性二人が乗ってきた。
ドアを開けた彼女達、私を見て真っ先に口にしたのは
「カザフスタン人?」
(カザフスタン人に間違われたのは後にも先にもこの時だけ。ネパールに居た時はネパール人にしか見えない、こんなネパール人みたいな日本人見たことない、とか言われたけど。)
ロシア語は?ウクライナ語は?と聞かれ、どっちも話せない、というと残念そうに微笑んだ。
英語はどこでも通じるわけではない。
簡単なロシア語くらい勉強すればよかった。
それでも陽が昇り目が覚めると、お茶を勧めてくれたり、電車がチェルノブイリ駅に停車すると
「ここはチェルノブイリよ。」
などと教えてくれたりした。
チェルノブイリの駅は明るく多くの人で賑わっていて、駅周辺の街はそれなりに栄えているようだった。
どこかの駅で停車した際には女性はホームの売店で東欧の餃子のような食べ物、ピエロギを大量に買って来て、あなたも食べなさい、と勧めてくれた。
無造作にビニール袋に入ったピエロギ。湯気が立ち上るほど温かく、モチモチした皮の食感と中の餡の肉の脂身や旨味に、思わず笑みがこぼれ、親指立ててグーサインをしてみせた。
異邦人の食べる様を凝視していたおばちゃん二人は嬉しそうに、そうでしょう、美味しいでしょう、もっと食べなさい、と勧め、
ロシア語で美味しい、はクースナと言うのよ、と教えてくれた。
「クースナ!クースナ!」
と言いながらピエロギをご馳走になりつつも内心、やっぱり餃子には醤油が合うんだよな、でもこれって失礼かな、などと思いつつバックパックに忍ばせていた醤油のボトルを出してみる。
それをつけて食べたらやっぱり旨さ倍増。
ちなみにこの醤油はポーランドの屋台でピエロギを見かけた時にスーパーで買った物だ。
本来ピエロギはサワークリームを付けて食べるのだけど、やっぱり醤油だよ!と屋台のピエロギを醤油で食べていた。
私の醤油を不思議そうに見ながら、何それ?と尋ねる二人に、試してみます?と醤油を勧めると、二人はピエロギを醤油に漬けて食べ始めた。
今度は私が二人の反応を気にする番だ。
口にした途端に二人共、目を見開き笑顔に。
何これ、すごくイケるじゃないの!という雰囲気で
「クースナ、クースナ!」
を繰り返し、結局最後まで醤油を漬けてピエロギを平らげた。
言葉が通じなくても食べ物は人と人を繋げる。
世間話すら出来なくとも、美味しいものをくれただけで、共有しただけで一気にいい人感が増す。
二人は女の一人旅を案じたのか、キエフに住む友達か家族の住所と電話番号をメモした紙を私の手に握らせて下車した。
「何かあったらここに連絡しなさいよ。この人は英語が話せるから」
というようなことを言いながら。
ハグしてお別れをし、しばらくしてキエフの駅に着くともう陽が暮れていた。
キエフの街歩き
宿の場所をウクライナ語で住所をノートに書き留めておいたのは正解だった。
タクシー運転手にそのノートを見せると、彼は住宅街のアパートの前に停車した。
宿はアパートの建物内にあったのだ。
キエフの街は美しい西洋的な建造物がある傍ら、荒れ果てた廃墟も割と目についた。
財源の豊かな西欧と違い、東欧の街は道路の破損が目立ったり、寂れたビルも多く貧しさが目につく。
宿で一緒になったカナダ人の男性はウクライナ人の彼女がいるとかでキエフの街には詳しく、ウクライナ語が堪能でキエフに初めて来た私を二日間あちこちに観光に連れて行ってくれたのだった。
カナダ人の男性はウクライナ人の女性ばかりとお付き合いをしている、と言っていた。
東欧の美しい女性と付き合いたい西欧人の存在や、ウクライナ人と欧米人のマッチング会社の存在をこの時初めて知った。
彼のおかげでロシア語が出来ない不便さを味合わないままキエフの旅を無事に終えた。
ただ、ガイドがいた事で現地の人達と交流する機会は無くなってしまったけれど。
キエフはとにかく英語が通じない。
次の目的地への電車の切符を買うのに、宿に人に買いたい切符の情報を全てウクライナ語で書いてもらい、その紙を駅に持って行き、切符を購入したのだった。
旅をした地に不幸なことが起こると、それは途端に自分に近い事件のように思えてしまう。
寝台車で一緒になった女性たちにも、宿で働いていた人もお寿司屋さんのお兄ちゃんも。
どうか誰もが等しくご無事でありますように。
そして、あの美しい街がこれ以上破壊されませんように。