ヤクには気をつけろ
今回、山の話はあまり関係ない
五輪関連の仕事が流れたことに始まり、長年の無理がたたったのか、とうとう腰痛を発症してしまい、憂鬱な気持ちになる。
さらには仕事がつまっているところに、著作権に絡んだアレコレもあって心身ともに疲れ気味。こんな時は、記事を書きながら無意識にヤクを使いがちだ。
そして、意図せずにヤクを使っていることに気付く。ハッと我に返る。僕は何をしていたのだ。「これじゃあいけない」と心の中で自分に言い聞かせ、動揺を沈める。
もちろん、言わずとも、そんなことは分かりきっている。そう、ヤクの使いすぎはよくない。
頭では理解しているのだ。なにをいまさら、当然のことじゃないか。誰もが分かっている。
「ダメ、ゼッタイ!」
にもかかわらず、知らず知らずに使ってしまう。これがヤクの恐ろしさだ。静かに音もなく忍び寄り、心の隙間に入り込んでくる。だからこそ言いたい。
「ヤク、ダメ、ゼッタイ!」
もちろん、世の中にはいろんな考え方があるのは百も承知だ。「ヤクはよくないよ」と、かつて身近にいた人に伝えると、答えはさまざまだった。「そうだね。気づかなかった」と素直に受け入れてくれるばかりではない。
「いいじゃないか、何もそこまで目くじら立てなくても」
「そんなことにこだわるのね。小さな人」
「個人の勝手だろ?うるせえな」
トゲのある言葉をぶつけられるたびに傷つき、自分が間違っているのかもしれないと自問自答したこともある。小さな問題にこだわりすぎているのだろうか。周囲との関係を円滑にするために、目をつぶろうとしたこともあった。
けれど、無理だ。
目を背けようとしたところで、ヤクの方から目に飛び込んでくるのだ。
先日などは、飛行機に乗っている時に目撃してしまった。見たくなかったのに、うんざりする瞬間だ。
実は「約」についての話だった
「約14皿の料理が並び~」
機内誌に書かれた一文から目が離せなくなった。記事の内容は覚えていないのだが、「ヤク」に関しては鮮明に覚えている。こんなに大胆なヤクの使い方は珍しいからだ。
普通は四捨五入した後の数字がヤクとセットになる。それがヤクの作法だ。この場合なら、「約10皿」だろう。この際、なんなら三捨四入でもいい。約20皿とした方が「約14皿」よりもまだ理解できる。
約14皿はダメだ。具体的すぎるのだ。踏み込んで言うと、ヤクを加える必要がない。だって、きちんと数えられているのだから。
コース料理は13皿になったり、15皿になることもある。変更があるから、14皿に限定したくないのだろうか。
あるいは、極端に小さな皿を使うから、1枚としてカウントしていいのか疑わしくなったのか。答えは分からない。
真相は、書いた人間だけが知っている。ヤクは奥が深いのである。
はじめは文章術的なことを書きたかったが、こうなったのもヤクのせいだ
書いていて何気なく付けがちな「約」。およそ、だいたい、~ほど、~くらい、なども近しい。なんとなく断定したくない気分がにじみ出ている。強く言いきれない何かがある。僕の場合だと、冒頭のように疲労困憊なのか、精神的にまいっている時である。
新聞記者になりたての新人時代は「目視ですぐに数えられる数字にはつけるな」と先輩が誰かに怒鳴りつけているのを聞いて覚えた。怒鳴る必要があったのかはさておき、もっともだ。
「生まれたばかりのイヌ約3匹を、昼夜を問わずに世話していた」
こんな一節があったとしよう。書かれていることを追いつつも、なぜ「約3匹」なのだろうと気になって仕方がない。なぜ、断定できないのだ。1匹だけ、生後まもなく亡くなったのか、はたまた生まれたばかりなのに、すこぶる俊敏に走り回っているのだろうか。理由を考えてしまう。
その間も、目は文字を追っているのだが、よく分からない深読みのせいで、内容が頭に入ってこない。ヤクのせいだ。ヤクに出会わなければ、ちゃんと記憶することができたはずなのに。出会ったばかりに、悲しい目に遭ってしまったのだ。
だから僕は声を大にして言いたい。「ヤク」は気安く使ってはいけないのだ。安易に頼ってはいけないのだ。使った人間だけではない、ヤクを目にした人間に害を及ぼすのだ。
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バカみたいなことを書きつらねてきましたが、読む人を困惑させる文章表現は、避けるに越したことはありません。1文字で大きな混乱を与えかねない「ヤク」は、書き手として注意の必要なワードです。今回はヤマもオチもない、そんな文章表現に関する回でした。