U2は寝てまて
前回のあらすじ 鬱=U2と表記をポップにしてみた。U2になりそう。会社を辞めるといってみた。
毎晩、スマホの液晶をボーッと眺めていた。画面には緑色の芝生と目まぐるしく動くボール。ブラジルで開催されていたサッカーのW杯だった。朝を迎える頃に、試合終了を告げるホイッスルが鳴る。それを合図に、僕も目を閉じる。規則正しい1日が過ぎていく。
「ボールは丸い」というのは、サッカーで何が起こるか分からないことを例えて言うのだが、本当に何が起きるのか分からないものだ。まさか、仕事もせずにW杯を見る日々がくるとは。
上司から逃げるなと言われ、精神的に参ってしまった。翌日、会社に行くことはおろか、立ち上がるのも一苦労。メンタルの疲労は、全力で走り切った後よりもつらい。なんとか病院に行き、U2と診断を受けて、とりあえず休職と相成るのであった。
正直なところ、このあたりの記憶はぼんやり。ずっと寝ていたような気がする。暗い部屋の中、眠いのかどうかは関係なく、目を閉じていた。
会社に悪いことをした。でも行きたくない。何もしていない自分は無価値なのか。
おぼろげに覚えているのは、そんな考えがずっとグルグルしていたこと。ネガティブな思考がすべて溶けて固まってバターになればいいのに。すぐさま出荷して、ろくでもない記憶とバイバイしたい。
何も考えずに、睡眠によって記憶を消去しようと、布団にくるまって横になり続けた。上司にあらがおうと意図していたわけではないが、逃げるからには立派に逃げるのだ。
時折り、グルグルと回り出すこともあったが、そんな思考の輪は次第に勢いを弱めていった。
胎内で眠るように、静かな時間を過ごす。何週間かすると、気持ちがややスッキリ。その頃から、W杯が日課になった。実は、途中からほとんどの試合を見ていたはずなのだが、まったく覚えていない。日本の試合も後々の映像で記憶しているくらいで、詳細はイマイチである。
U2のW杯は何も残らないのだ。サッカーで23歳以下を示すU-23のような表記。U2は2歳以下とすると、記憶に残らないのも無理はない。
半透明な膜に包まれたような日々から、徐々に記憶がクリアになってくる。精神的な疲れが癒えてきたのだろうか。果報は寝て待て、である。寝るのも幸せなのだから、そこに果報が来るのなら、幸せマシマシだ。
頭をからっぽにすることにも慣れ、マイクロビーズの詰まったクッションに横たわっていた。「人をダメにするクッション」というキャッチフレーズで売られていたものだ。その姿勢のまま、1日の大半を過ごす。同じような1日を繰り返しながら、変化もあった。
休職期間が終わりを迎えた。これ以上は休めない。逃げるなという言葉と真摯に向き合い、改めて逃げないことから逃走。というわけで晴れて退職が決まった。
そうこうしていると、そろそろ何かしてもいいかもと気持ちがほんのり前向きに。体を動かそうと思い立つ。記憶には残らなかったが、サッカー観戦を続けてきた効果だろうか。ひとりでもできる散歩、そしてジョギングを始めることにした。
ひと目を避けて、真夜中に走る。10分もすると息があがった。学生時代は1時間走っても大丈夫だったのに、こんなにすぐ疲れるとは。体はしんどいけれど、不思議と気持ちよかった。誰の評価を気にするでもなく、自分の意思で何かをする。結果がよくても、悪くても構わない。些細なことが嬉しかった。
ささやかな喜びを糧に、走ることが日課になった。徐々に長く動けるようになり、走る距離も伸びていった。それに反比例して精神的に参ることはなくなった。そして、アスファルトから山、そしてジャングル、砂漠、雪原とフィールドは広がった。
さまざまな大地に立ち、走るようになり、新聞記者時代を振り返る。取材で外に出ているようで、会社というハコの中に自分自身を閉じ込めていた。ちっぽけなことを、ひどく大事なことと思い込み、自分を疲弊させていた。
自然の中に身を置くようになり、人間がいかほど小さな存在であるかを知った。強い風が吹くだけで、雨で濡れて凍えるだけで、動けなくなる。明かりがないと、夜の山では身動きすら取れない。本当にちっぽけだ。
ちっぽけすぎて、どうでもいいことに悩んでいることがバカバカしくなった。大嵐から生還するよりも切実なことはないだろうし、灼熱の砂漠で水を得ることよりも大事なこともない。
雨の日があるように、気持ちの塞ぎ込む日もある。それも自然なことと受け入れ、じっと耐える。雨があがるのを待つように待つ。そんな過ごし方が身に付くにつれ、疲弊することはなくなっていった。
すべては小さなことなのだ。そう思えたなら、次の一歩を踏み出すのは難しくない。逃げようが、どこかに向かって進もうが、疲れたら立ち止まってもいい。何だって構わない。
いずれにしても、ちっぽけなのだ。ただ、小さな足跡だからこそ、どこまで行けるのかを試すのも悪くない。今はその道の途中にいる。